「新賀荘」と呼ぶ南都・興福寺の領地として、新賀の地名が平安中期・延久二(1070)年の同寺関係文書に初登場しています。文書に記載の内容から推測してこの興福寺領は、現新賀町を中心に新口町・八木町あたりまで分散し広がっていたようです。
平安・鎌倉・南北朝時代を経て室町時代に入ると、興福寺に属する豪族・十市氏系の地侍・新賀氏が本拠を当地に構え、寺領の実質支配を強めていきます。室町中期に起こった応仁・文明の争乱以降は当時、現橿原市北部を支配の十市氏と南部を支配の越智氏が、長年にわたって当地の領有争いを展開します。そして室町末期を経て戦国時代になり、土地は、結局として天下人・織田信長の支配下に入ります。
江戸時代に「新賀村」となり二見五條・郡山藩領のあと、宝永七(1710)年からは幕府領。寛保年間(1741~43)の村明細帳によりますと人口340人の農村で、農業の合間仕事として男が縄・むしろ・俵作りに、女が木綿織り・麻布作り・木綿糸繰りに精を出したと伝えています。
耳成村大字となった明治22年ごろの物産は、米・裸麦・小麦・菜種・草綿などでした(町村誌集)。昭和31年に「橿原市新賀町」となりました。
ー『かしはら町名考』よりー